わたばたけの会の成り立ちについてのお話です。

☆わたはいつ頃日本にはいってきたのでしょうか?

昔々あるところにおじいさんとおばあさんが・・・・・と始まる昔話のようにわたの歴史の話からです。
日本にわたがはいってきたのは、西暦798年にマレーインドシナ半島から崑崙人が日本にやってきました。
裸の青年は壺の中に綿の種をもってきたのです。
しかししかし、簡単には、わたは育ってくれません。失敗失敗の連続で、結局その種からわたをとることはできませんでした。ああ、残念・・・というか、それじゃわたは日本ではそだってないの?ということになりますよね。
それ以降もたびたび日本にはわたの種はもちこまれているのです。
やがて盛んに栽培されるようになるのは、江戸時代になってからのことです。

☆播磨でもわたを作っていたのでしょうか?

瀬戸内地方はわた作りには最適でした。災害も少なく気温も温暖だったので江戸時代には播磨地方から京阪神まで
わたばたけが広がっていました。姫路藩も1823年(文政6年)に江戸で木綿専売を認められることになりました。
その名残が今でも姫路の綿町という町名で残っています。
当時、藩の借金は73万両ありましが財政の改革を命じられた家老の河合寸翁(すんのう)が姫路木綿の販売で
7,8年でその借金を返済したと言われています。

☆わたはどうして日本で作られなくなったのでしょうか?

明治時代になり、海外から安いわたが輸入されるようになってきました。また、輸入された紡績の機械に日本のわたは
合いませんでした。その結果、日本のわたの栽培が急激に減ってしまいました。
第二次世界大戦後には、わたは日本から姿を消してしまいました。

☆いま私たちがわたを育てる意味は?

戦後、わたばたけが日本から消えて60年が過ぎた今、「みんなの手でわたを育てよう」と言う声から
市民のわた作りが始まりました。
最初はただ単にわたを育てようという会でしたが、姫路は、わたのとの深いかかわりの歴史があることを知り
みんなで姫路木綿の復活を願い、わたを育て、その収穫したわたから糸を紡ぎ、織物にする事をはじめました。
姫路には多くの休耕田もあり、わたばたけとして活用出来ればと思います。
わた作りの楽しみと先人の思いを融合させ、今に活かそうとしています。